邪馬台国チャンネルへようこそ。魏志倭人伝を読み進めて、23回目になります。倭国の風俗習慣の記述に入っていますが、今回は、人々の生活する様子や、人が亡くなった際の風習についてです。倭人伝全般に言える事ですが、魏の使者たちは北部九州の伊都國に留め置かれ、そこで見聞した倭人の様子を記したという事が、よく分かります。それは、北部九州から発見される弥生の遺物と、記述との一致が多いからです。残念ながら、魏志倭人伝は邪馬台国見聞録ではありませんので、これをもって邪馬台国九州説を正当化するものではありません。
これまでに読み進めてきた魏志倭人伝の内容です。
朝鮮半島の帯方郡を出発して、邪馬台国に至りました。奴国と邪馬台国との間には、21ヶ国の旁國があります。
これらをすべて含めた30あまりの国々が連合した国家が「女王國」であり、その中の一つが邪馬台国であって女王の都だと分かります。
行路の記述では、九州島に上陸してからはずっと、90度のずれがありました。これは、魏の使者たちを欺く目的があったようです。
女王國に敵対していた狗奴国については、ここでは南に位置するとだけ書かれていましたので、90度ずれた東に位置する近畿地方を指しているようです。
また、帯方郡から女王國までの距離が12000里という記述も正確でした。
風俗習慣では、人々が体中に文身をしていたり、服装や髪型などの記述。織物類や鏃などの生産物、家畜の有無などが記述されており、それらは、中国南部の海南島と同じだとされています。また、倭国は温暖で、冬でも夏でも生野菜を食べていたり、みな裸足だという記述もありました。
これらは、九州島でさえも全く一致しません。行路の記述で90度のズレがありましたので、どうやら著者の陳寿が「倭国は南の島である」、という勝手な思い込みをしていたようですね?
そのままのイメージで魏志倭人伝を記したのだと考えられます。
今回、さらにその先を読み進めると、一般的な生活習慣についての記述となります。
「有屋室、父母兄弟臥息異處」
屋室有り。父母、兄弟は異所に臥息す。
とあります。
倭人たちの生活についてです。考古学的には、弥生時代の一般的な民衆の家屋は竪穴式住居だった事が分かっています。これは、かなり狭いものでした。一家族6人から8人住んでいたとした場合、肩を寄せ合うようにしなければならず、窮屈です。
ところがここでの記述では、親と子供たちが別々に寝起きしていた事になっています。おそらく一般民衆の家屋の描写ではなくて、権力者たち上流階級の比較的広い家屋の描写ではないかと思われます。
「以朱丹塗其身體、如中國用粉也」
朱丹を以ってその身体に塗る。中国の紛を用いるが如し。
とあります。
倭人たちは、朱丹と呼ばれる赤色の顔料を体にぬっていました。中国人が白粉を塗るようなものだと記されています。
古代の日本における赤色顔料は、硫化水銀、二酸化鉄、および四酸化三鉛です。この中で硫化水銀は薬や防腐剤の役割りがありますので、日本列島全域で広く使われていました。ただしここでは、材料を特定できません。
推測ですが、魏の使者たちは、伊都國(現在の福岡県糸島市)に留め置かれていましたので、ベンガラという二酸化鉄の赤色顔料を塗った人々を見て、このような描写になったのかも知れませんね?
ベンガラは、鉄の原料になる阿蘇黄土から抽出した二酸化鉄で、北部九州の弥生土器にも塗られている赤色顔料だからです。
「食飮用籩豆手食。」
食、飲には籩豆(へんとう)を用い、手食す。
とあります。
ここでは、飲食する際の器についてです。竹を編んだ高坏である籩(ヘン)や、木をくり抜いた高坏である豆を用いていたとされています。そして、手づかみで食べていたとあります。原始的でしたね。箸が伝来する前の時代です。仕方ありません。
次からは、人が死んだ後の扱いについての風俗習慣です。
「其死有棺無槨、封土作冢」
その死には、棺有りて槨無し。土で封じ冢を作る。
とあります。
棺とは「ひつぎ」の事で、槨とは「ひつぎを入れる空間」の事です。つまり、お墓にひつぎを納める際には、その為に特別な部屋を設けることはなく、ひつぎの上から直接土を掛けてお墓にするという事です。この風俗習慣も、北部九州なればこそのものです。なぜならば、甕棺墓と呼ばれるお墓が作られていたからです。甕棺墓はその名の通り、大きな甕をひつぎとして、その中に遺体を入れる。これを穴の中に埋め込む、というお墓です。槨と呼ばれる「ひつぎを入れる空間」はありません。一方で、邪馬台国や投馬国という日本海沿岸の先進地域では、権力者のお墓には槨が設けられてその中に棺を納めています。
この事から、魏の使者たちは北部九州の伊都國に留め置かれていた為に、邪馬台国での埋葬方法を知る事はなく、「棺有りて槨無し」、という記述になったようです。
「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」
始め、死して停喪すること十余日。当時は肉を食さず、喪主は哭泣し、他人は歌舞、飲酒に就く。
とあります。
人が死んで10日ほどは、お墓に埋めずにそのままの状態にしておきます。その期間には、肉を食べず、喪主は泣き叫び、他の者は歌い踊って酒を飲む、という様子です。これは現代でもほとんど同じですね?
「已葬、擧家詣水中澡浴、以如練沐」
已に葬るや、家を挙げて水中に詣(いた)り澡浴す。以って練沐の如し。
とあります。
埋葬が終わると一家そろって水の中に入り、洗ったり浴びたりします。それは中国の練沐という習慣のようなものだという事です。
現代では水の中には入りませんが、厄払いの為に塩を全身に振りかけたりしますから、同じようなものでしょう。
いかがでしたか?
倭国に関する風俗習慣の記述は、イマイチ面白くないですね? ありきたりな事しか書かれていません。さらに、魏の使者たちは邪馬台国まで行っていないので、ここに書かれているのは北部九州の風俗習慣でしかありません。
著者である陳寿は、魏の時代のそんな報告書を少しでも面白くしようと、様々な脚色を施したようですね?
次回は、風俗習慣の中の厳しい掟について、考察します。
魏志倭人伝は、魏志邪馬台国伝にあらず。
魏志倭人伝に書かれている内容が、すべて邪馬台国に関するものだ、と思われている方が、結構いらっしゃるようです。
例えば、蚕を飼って絹を生産していると書かれているから、絹が出土している場所こそが邪馬台国だ。とか、鉄鏃と書かれているから、鉄の鏃が出土している場所こそが邪馬台国だ。とか、あるいは、丹と呼ばれる赤色顔料が取れる場所こそが邪馬台国だ。とか。
それって、根本的に間違っています。魏志倭人伝は、その名の通り倭人について書かれている書物です。倭国に住んでいた人々と、その風俗習慣についてです。邪馬台国を特定した風俗習慣なんかは、どこにも書かれていません。
一度、ご自身で魏志倭人伝の原文を読んで頂ければ分かる事ですが、弥生時代の日本列島、つまり倭国ですね。それがあって、その中に女王國という30ヶ国の連合国家があって、その中の一つの国が邪馬台国なんです。30ヶ国の中の一つに過ぎないのです。ほかの29ヶ国と何が違うかと言うと、「女王の都する所」、つまり女王國の都だと書いてあるだけなんです。ですから、魏志倭人伝に書かれているからといって、それが邪馬台国についてだとは、全く言えないのです。
どうしても最初の頃は、誰しも先入観がありますので、基本的な事を誤解してしまいますよね?
ただし、歴史学会の重鎮や、プロの歴史作家でさえも、その辺を理解できない人たちがたくさんいらっしゃいます。いやはや、何と申しましょうか?
まあそれが、邪馬台国論争に素人でも入り込み易い、という一つの理由なのですが。歴史のプロたちの不甲斐なさが、一般の人達に楽しみを与えてくれている、という事でもありますね?