邪馬台国チャンネルへようこそ。魏志倭人伝を読み進めて、36回目になります。
今回からは、魏の皇帝が倭国の使者へ述べた詔に関する記述に入ります。魏の都・洛陽までは、邪馬台国からは2000キロ以上もあります。そんな遠方からやって来た使者たちに、魏の皇帝はとてもやさしい言葉を掛け、豪華なプレゼントを用意していました。その中で最も有名なのが金の印鑑なのです。ただし、文章の中にある「假金印」という表現が気になるところです。卑弥呼の手元に届いたのは金の印鑑ではなかったのかも?
まず、魏志倭人伝の全体像を示します。大きく3つの章に分けられており、
最初は、諸国連合国家である女王國について。
次に、倭人の風俗習慣について。
最後に女王國の政治状況について。
となっています。魏の皇帝からの下賜品の話は、この章からです。
これまでに読み進めた内容を要約します。
邪馬台国までの行路では、このような道程が示されていました。その間にある20ヶ国の旁國を含めた30あまりの国々が連合して「女王國」が成り立っており、その中の一つ、女王の都が邪馬台国です。
行路の記述では、九州島の最初の上陸地点である末蘆国から、最終目的地の邪馬台国まではずっと、90度の誤りがあります。これは女王國が、海岸線の情報を魏の使者たちに知られまいとし、その作戦が功を奏したからです。
女王國に敵対していた狗奴国については、南に位置すると書かれていますので、90度ずれた東に位置する近畿地方を指しているようです。
また、帯方郡から女王國までの距離が12000里という記述も正確でした。
風俗習慣の記述では、魏の使者が見聞した様々な事柄が記されています。
北部九州の伊都国(現在の福岡県糸島市)に留め置かれていましたので、ほとんどが九州の風俗習慣です。倭人の身なり、絹織物の生産、鉄の鏃を使っている、などという描写です。
また、日本列島の気候風土とは全く合致しない記述もありました。それは、倭国はとても温暖で冬でも夏でも生野菜を食べている、みんな裸足だ、という記述で、それらは中国南部の海南島と同じだとされています。
方角を90度騙された魏の使者の報告書から、どうやら著者の陳寿が「倭国は南の島である」、という勝手な思い込みをしていたようですね? 海南島のイメージで倭人伝を書いてしまったようです。植物に関する記述でも、広葉樹のみが記されている事からも分かります。
さらに人々の生活については、父母兄弟は別な場所で寝起きする、赤色顔料を体に塗っている、食事は器から出掴みで食べている、人が亡くなった際のお墓の形式・お葬式の風習、食べ物には薬味を使っていない、猿やキジがいるのに食料にしていない、占いは骨卜、お酒を飲む習慣、一夫多妻制、規律正しい社会である事、などかなり詳細な部分にまで及んでいました。
倭国の政治状況の章に入ると、まず一大率という検察官を置いて諸国に睨みを利かせていた伊都國に関する記述、そして遂に卑弥呼に関する話になり、女王になった経緯や人となりが記されていました。
さらに、女王國の周辺諸国の話となり、侏儒国というコロボックルのような小人が住んでいた関東・東北・北海道エリア、船で一年も掛けなければ辿り着けない裸国や黒歯国という太平洋の島々、などの記載がありました。
そして話は倭国の使者が、魏の国へ朝貢した記録へと進んで行きました。
前回は、女王國の上級役人である難升米という人物をトップとした朝貢団が、朝鮮半島の帯方郡にやって来た記述。
そして、すぐに魏の都・洛陽へ連れていかれ、魏の皇帝から詔書を賜った旨の記載がありました。
今回は、その詔の内容です。
制詔 親魏倭王卑彌呼 帶方太守劉夏遣使 送汝大夫難升米 次使都市牛利
奉汝所獻 男生口四人女生口六人 班布二匹二丈以到
「制詔、親魏倭王卑弥呼、帯方太守、劉夏が使を遣はし、汝の大夫、難升米、次使、都市牛利を送り、汝が献ずるところの男生口四人・女生口六人、班布二匹二丈を奉り以ちて到る。」
という文章から始まります。
現代語風の言葉使いで魏の皇帝に話してもらいます。
「魏と親しくする倭国の王・卑弥呼へ。帯方郡の太守・劉夏が使いをよこして、その方の代理人である難升米と次官の都市牛利(つしごり)を連れてきた。その方の献上品である男奴隷四人、女奴隷六人、および班布二匹二丈、確かに受け取った。」
まずは、倭国の使者たちが貢物を持って到着した事を、「確かに受け取ったぞ」。といった調子で述べています。
貢物は、奴隷が10人と、班布(はんぶ)が二匹二丈でした。
使節団の総人数はどれくらいいたのかは、この文章からは分かりません。推測するに、上級官僚の難升米や都市牛利(つしごり)の他にも、武装した従者はいたはずですので、少なくとも100人以上はいたのではないでしょうか?
貢物の班布は、現代では木綿糸で織った布とされていますが、木綿が日本に伝来したのはずっと後の時代ですので、単なる麻布か、粗末な絹織物だった可能性もあります。
いずれにしても、朝貢品はたったのこれだけです。お粗末ですね?
後の記述で魏の国から倭国へのプレゼントの記載がありますが、倭国からの朝貢品とは全く比較になりません。あまりにも絢爛豪華です。
さらに詔は続きます。
汝所在踰遠 乃遣使貢獻是汝之忠孝 我甚哀汝
「汝の在する所は遠きを踰(こ)ゆ。すなわち、使を遣はし、貢ぎ献ずるは、これ汝の忠孝なり。我は汝を甚だ哀れむ。」
とあります。
これは魏の皇帝のねぎらいの言葉です。魏の皇帝は、次のように話したのでしょう。
「その方たちの住んでいる所は、遠いという表現を超えている。そんな所から使者を派遣し、貢ぎ物を献じるのは、その方の忠誠心の表れである。私はその方をはなはだしく、いとおしく思う。」
ってな感じでしょうか?
詔は次に下賜品、つまり倭国へのプレゼントについて述べています。
今以汝為親魏倭王 假金印紫綬 装封付帶方太守假綬 汝其綏撫種人 勉為孝順
今、汝を以って親魏倭王と為し、金印紫綬を仮(あた)へ、装ほひ封じて帯方太守に付し、仮りに授く。汝は種人を綏撫し、勤めて孝順を為せ。
とあります。
これはとても有名な、金の印鑑を下賜した下りです。実はこの中国語を翻訳するには、やっかいな問題があります。それは、「假」という漢字の持つ意味です。現代の日本語の意味は、ほぼ100%、「一時的」という意味で使われますね?
「仮の姿」とか、たとえ話に際に「仮に」、とか使います。この「一時的」という意味から派生して、一時的に貸し与えるという意味にまで拡大解釈も出来ます。
この文章には、2回の「假」という文字が出てきますので、そこを注意して現代日本語に訳すと、次のように魏の皇帝が話した事になります。
「今、その方を親魏倭王として、仮の金印を授ける。丁重に封をして、帯方郡の太守に一時的に授けておく。
その方は、部族の者を安んじ落ち着かせることで、私に忠誠を尽くすように勤めなさい。」
といったところでしょう。
この文章を読んで分かるように、魏の皇帝は、女王國に対して仮の金印を、「仮に」プレゼントしたという事が分かります。実際に渡した相手は、倭の朝貢団のトップの難升米ではなくて、朝鮮半島・帯方郡のトップだと分かります。しかも一時的にです。
邪馬台国比定地論争では、卑弥呼の墓の所在地も多くの注目が集まっています。そして多くの論者は、「金の印鑑が出土すれば、そこが卑弥呼の墓である。」としています。果たしてそうでしょうか?
この魏の皇帝の詔を読んでも分かる通り、卑弥呼の手元に届いたとすれば、仮の金印です。
また、帯方郡(現在の韓国ソウル市近郊)に運ばれた後に、倭国に仮に授けるという下りが後の記述にありますので、その後、魏の都・洛陽に戻されたかも知れません。
何はともあれ、日本国内で卑弥呼の墓の候補地をいくらほじくり返したところで、金の印鑑は出てこない可能性が大きいですね?
いかがでしたか?
魏の皇帝の詔は、まだまだ続きます。この先、金の印鑑に勝るとも劣らない様々なプレゼントが列挙されてきます。その中には、「銀の印鑑」も含まれています。これは倭国の使者のトップ・難升米に渡された物なので、確実に倭国日本にまで持ち帰ったと推測できます。もし卑弥呼の墓を見つけ出すならば、金の印鑑ではなく、銀の印鑑を探し出す事の
方が、大切ですね?
「假」という字は頻繁に書かれている
今回、「假」という文字が2回出てきましたが、この後も4回も登場します。
假銀印 假倭王、假授、假難升米、といった具合です。この文字はとても重要な名詞の前に付けられていますので、翻訳次第で大きく内容が違ってきてしまいます。特に、假倭王というのは、卑弥呼ではない代理人を意味してきますし、
假難升米というのも、難升米ではない代理人の意味になりますね?
卑弥呼や難升米という国家を代表する人物には、当然ながら何人もの代理人や影武者がいたでしょうから、そういう人物を指しているのだと思います。
この辺は、政治状況の中での重要事項ですので、卑弥呼本人かどうか? という事が正確に記されたのだと考えます。