こんにちは、八俣遠呂智です。
古代の長距離移動の7回目になります。魏志倭人伝から分かる当時の長距離移動は、日本列島内部における邪馬台国までの道程ばかりが注目されますが、それだけではありません。魏の使者が倭国までやって来たり、女王國の使者が魏の都・洛陽まで行ったりしている様子も描かれています。しかしその道程の詳細はほとんど無く、邪馬台国までの行路以上に謎に包まれています。今回は、日本列島を離れて、朝鮮半島での魏の使者たちの長距離移動を考察します。
魏志倭人伝に記されている長距離移動には、女王國の使者が都・洛陽まで行った記録と、魏の使者が倭国までやって来た内容もあります。この中で、道程が記されているのは一ヶ所のみです。朝鮮半島の帯方郡(現在のソウル市近郊)から狗邪韓国(現在のプサン市近郊)までの行路です。
「從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國」
郡より倭に至るには、海岸に循いて水行し、韓国を歴て、乍南乍東し、その北岸、狗邪韓国に到る。
とあります。
この長距離移動も、やはり「水行」という船を使った移動になっています。
この辺の記述は、一般にはあまり問題なく受け入れられてしますが、私は少々疑問を持ちました。それは、朝鮮半島ならば「陸行」、すなわち陸地を移動する方が有利だったのではないのか? という点です。
なぜ「水行」にしたのでしょうか?
陸行の方が便利だったと考える理由には、次の4点があります。
・急峻な山々が少ない朝鮮半島の地形
・寒冷地な上に降水量が少ないという気象条件によって、草原や禿山が多い。
・朝鮮半島東部の新羅は馬の繁殖適地であり、当時は既に馬が存在していた
・朝鮮半島南西部には小さな島々があり、潮流変化が激しいので船の移動は困難
日本に住んでいるとあまり感じませんが、世界的に見て、日本列島のように、狭い場所に切り立った険しい山々が連なっているのはとても珍しい地形です。一方、朝鮮半島に高い山はほとんどなく、ごくありふれた地形です。なだらかな丘陵地が多いのが特徴です。その為に、山々を越えて移動するという困難さはありません。これは、中国大陸の魏の都・洛陽までの行路も同じです。船を使わなければならない理由は希薄です。
ちなみに、「峠」という漢字がありますが、これは日本人が発明したものです。中国人や朝鮮人に「山を越える・峠を越える」という概念すら無かったのは、このようななだらかな地形によるものなのです。
朝鮮半島は禿山が多いのはよく知られていますよね?
禿山であれば、陸地を移動する為の道は、獣道だけに限られません。
禿山が多い理由の一つには、朝鮮人は無計画に節操なく森林を伐採するからなのですが、もう一つの理由として気象条件があります。日本に比べて遥かに気温が低い上に降水量が少ないのです。その為に、植物の成育が遅く、日本のような森林が形成されるのは、河川に近くて水量の豊富な場所に限られてしまいます。
またこれによって、農業条件も劣悪です。水田稲作のような熱帯性の植物は、古代の技術では寒すぎて育てる事は出来ません。その為に、人口扶養力の低い畑作物が栽培されているにすぎませんでした。
3世紀頃の朝鮮半島の土地の状況は、日本列島以上に人口密度が低く、草で覆われた丘陵地が広がっている状態でした。
このような朝鮮半島の状況は、日本海に面した東海岸に多く見られます。この地域は、古代において、新羅や高句麗が勢力を張っていた地域です。もうお分かりですね?
降水量が少なく、草原で覆われた丘陵地が広がっている場所は、馬の繁殖適地です。
日本列島のような急峻な山々は存在せず、湿地帯が少なく、密林地帯でもない。馬がのびのびと成育繁殖できました。日本では5世紀頃にならないと馬の伝来はありませんが、この地域には紀元前3世紀頃には既に馬は存在していました。これを長距離移動に使わない手はないでしょう。
さらに、船を使った長距離移動には、不利な点があります。
朝鮮半島南西部には小さな島々が数多くあります。これは、多くの海峡が存在している事を意味し、激しい潮流変化が常に起こっている場所です。日本列島でいうならば、瀬戸内海を航海するようなもので、古代の稚拙な船舶では非常に危険です。
日本列島の場合には、日本海という穏やかな海域を船で長距離移動するのが最も良い選択肢なのですが、朝鮮半島では必ずしもそうではありません。陸地を馬を使って長距離移動する方が、遥かに安全な手段のように思えます。
ところが魏志倭人伝では、最初に示しました通り、「水行」というこの海域を船で通過する方法が取られているのです。なぜでしょうか?
最も大きな要因は、この地域の政情不安です。そもそも朝鮮半島は有史以来まとまりのない地域です。さまざまな民族が入り乱れて領地の奪い合いが起こっていた為に、常に周辺諸国の属国だった地域です。この時代も、帯方郡(現在のソウル市近郊)は魏の植民地でしたし、半島南部は倭国・日本の植民地でした。一方で、陸地を移動するのに適した半島東部は、新羅や高句麗という遊牧民・騎馬民族の支配下にありました。
魏の使者が倭国にやって来た3世紀頃は、丁度、高句麗の南下政策が活発になった時期です。帯方郡を所有していた魏の国にとっても、朝鮮半島の北東部からの騎馬民族の激しい圧力があったと推測します。その為に倭国まで行くのに、容易な陸路をあきらめて、わざわざ船を使って海を移動してきたのです。
なお、高句麗や新羅の圧力は激しく、4世紀から5世紀には朝鮮半島の多くの地域を支配するに至りました。中国では5世紀に「宋」という国になっていますが、その頃には帯方郡は高句麗に奪われ、さらに新羅の領地になっています。もはや中国の植民地ではなくなっているのです。
このように、魏志倭人伝の行路一つとっても、その当時の朝鮮半島の政治状況までもが垣間見られるのです。
いかがでしたか?
長距離移動のルート変更が行われたのは、古代日本にも言える事です。遣唐使のルートです。初期の頃は朝鮮半島経由で唐の都・長安まで行っていました。ところが、7世紀に唐と新羅が連合して、倭国との紛争が始まりました。白村江の戦いです。この時期の遣唐使は、危険な朝鮮半島を避けて五島列島から中国大陸を目指しました。稚拙な船での1000キロ近い大航海でした。案の定、半数以上が難破して海の藻屑になってしまいました。
古代の長距離移動は、文献から読み取れるほど単純な話ではありませんよね?
日本の歴史は単純です
日本で「古代史最大のミステリー」とされているのは、邪馬台国や卑弥呼の話になるのですが、中国やヨーロッパの古代史から見れば、とても単純です。なにせ民族大移動が無いのですから。弥生人という人種が成立してから後は、古墳時代や飛鳥時代に渡来人と呼ばれる人々がやって来ていますが、民族間の紛争や、領土の奪い合いなんて、ほとんど無いですからね。強いて言えば、六世紀の磐井の乱や七世紀の白村江の戦い、くらいでしょうか? どちらも朝鮮半島の日本の領土が奪われてしまった戦いです。その後はモンゴルの手先になった朝鮮人が侵略して来た「元寇」くらいですかね。
とにかく平和な単一民族国家・日本は、神の国、なんでしょうね。