縄文時代の玉造り。古代中国文明にも影響を及ぼした。

 こんにちは、八俣遠呂智です。

古代の長距離移動の13回目になります。前回までに、弥生時代の長旅の食料調達において、勾玉・管玉という宝石類がお金の役割を果たしていた事を示しました。その中で、倭国日本の玉造りの歴史は世界で最も古く、7000年前の遺跡から出土している事実に行き着きました。

今回は、弥生時代から遡って縄文時代の玉造りをもう少し掘り下げます。世界中では、まだ「物々交換」が行われていた原始時代に、日本列島では宝石という「お金」を用いた通貨経済へと進化していたのです。

 石器時代から縄文時代へ。同じ狩猟採取を行っていた時代にも拘らず、日本の時代区分では、なぜかこの2つを明確に分けています。これは、土をこねて焼き上げて器にする、という土器を使い始めた文明が16,500年前に、世界で初めて日本に於いて誕生したからです。それだけでなく、芸術的なセンスを持った作品も多く見つかっているのも特徴ですね?

 このような縄文土器に象徴される縄文文明ですが、それだけではありません。もう一つ重要な点があります。

物々交換が行われていた原始時代から脱した世界最初の人種、それが縄文人だという点です。

 前回の動画で紹介しました縄文遺跡を再度示します。

新潟県糸魚川市の大角地遺跡と、福井県あわら市の桑野遺跡です。共に7000年前の縄文遺跡です。

玦状(けつじょう)耳飾と呼ばれるC型に加工された宝石が多く出土しているのが特徴です。玦状耳飾はこの2つの遺跡からだけでなく、北陸地方を中心として日本列島全域から出土しています。いずれも同じCの形をしており、紐を通し易いように小さな穴を空けてあるのも同じ特徴です。

 前回の動画で、これが耳飾りという装飾品の役割だけでなく、お金の役割りも果たしたと推測しました。それは、日本列島全域で同じ形をしていますので、統一された標準形状として認識されていたと考えられるからです。縄文土器が様々な形に造形されているのとは、対照的ですよね?

 初期の頃は、この玦状耳飾を食料などの他の物品と交換していたのでしょうが、やがてこれが基準通貨として使われ始めた。すなわち、縄文人が世界で初めて通貨経済を始めたという事です。

 玦状耳飾は、「勾玉」という形に進化しました。玦状耳飾では半分に割れやすかった為に、半円形にして、穴に紐を通して持ち運びを容易にしたのでしょう。この写真のような縄文遺跡から見つかっている玦状耳飾は、まさに勾玉の原型だったのは自明でしょう。

 弥生時代から始まった勾玉の製作は、お金としての役割に特化したものです。決して装飾品ではありません。そして、飛鳥時代までの1000年に渡って同じ形の基準通貨として使われ続けたのでした。

 もう一度縄文時代の玦状耳飾に戻ります。玦状耳飾という名称は、中国大陸で発見されていた「玦」という名の加工された石の形に似ている事から付けられた名称です。それは、大角地遺跡や桑野遺跡が発見される前でしたので、中国の遺跡が基準になっていたからです。要は、中国で生産が始まった「玦」が日本列島に伝来して来た、という中国中心の考え方から「玦状耳飾」と命名された訳です。

 中国大陸の玦の最も古いものは、東北部の査海遺跡からです。ここは、黄河文明よりも古い文明が起こった場所です。遼河文明として知られていますね? 査海遺跡の年代推定は、7000年前です。以前は、この地こそが世界で初めて玉造りが行われた場所とされていました。これによって、「玦」がオリジナルで、日本に伝播して来たものだという考えが一般化された訳です。

 ところが、大角地遺跡や桑野遺跡の発見によって様相が急変しました。同じく7000年前と推定されたからです。もちろん、これくらい古い年代推定になると、誤差がとても大きくなりますので、どちらが古いかは断定できるものではありません。しかしながら、中国大陸から玉造り文化が日本列島に伝来して来たという単純な図式は、崩壊してしまったのは言うまでもありません。日本から中国へ伝来したのです。従って、玦状耳飾という中国文明中心主義の名称も、正さなければならないでしょう。

 ここでは縄文人が中国大陸へ玉造り文化を伝播したという前提に立って推論を立てて行きます。すると、かなり理に適う仮説が成り立ちます。

 縄文人は17,000年以上前に、南の島からやって来ました。以前の動画で考察しまいしたように、「アウトリガー・セーリング・カヌー」のような初歩的な帆船を使っていたと推測されます。そして、環日本海地域を、対馬海流やリマン海流に乗って、食料を求めながら反時計回りに移動していました。そして朝鮮半島や沿海州をも支配地域となりました。

 中国大陸の北部地域は、気温が低い上に降水量も少ない場所です。古代に於いては、焼畑農業や木の実拾いすらもままならない地域です。僅かに野生動物を狩猟していた原始人がいた程度だったでしょう。

 そんな場所にやって来た縄文人は、海の幸を主食としていましたので、大陸の原始人よりは遥かに豊かな食生活を送る事ができました。そして、縄文土器という世界で最初の土器を、中国大陸へ教えてあげたのでした。

 そればかりではありません。

中国人は陸の民です。そもそも造船技術や航海術など何も無かった原始人です。そこへ海洋民族である縄文人が、基礎的な帆船の技術を教えてあげたのです。

 ちゃんとした構造の帆船は、中国で発明されたジャンク船ですが、これは縄文時代よりも2000年以上も後の西暦10世紀になってからです。それ以前は、太平洋の島々の住民や、縄文人と同じように、「アウトリガー・セーリング・カヌー」を使っていたのです。

 三世紀の邪馬台国の時代の魏の使者たちもまた、このような船で日本列島にやって来た訳です。

 縄文人が中国大陸へ教えてあげた文明のもう一つは、今回の主題である玉造り文化です。

査海遺跡の場所を見ても分かる通り、朝鮮半島や沿海州に近い場所にあります。玉造りが日本列島で始まった7000年前には、縄文人が既にこの地域までも支配地域にしていたので、縄文文明が容易にその地まで伝播したのでしょう。

 遼河文明という世界最古とされる文明は、実は縄文人たちが作り上げた文明かも知れませんね?

その後、黄河文明や長江文明が沸き起こってきますが、これもまた縄文人が文明を教えてあげたからこそだったのです。

 なお、ずっと後の弥生時代ならば、中国の国力が倭国日本を圧倒的に上回っていましたので、文明の流れは中国大陸から日本列島へという、一方向だったと考えるのが自然です。

 ところがそれよりも前の縄文時代はそうではなく、逆方向でした。陸の民である中国人が、海を渡れる帆船を建造していたなど有り得ないからです。

 玉造り文化にしても査海遺跡が発祥の地とした場合、それが日本列島に伝わる術はありません。7000年前の中国大陸の原始人に、対馬海峡を渡れる船や航海術など無かったからです。

 いかがでしたか?

縄文人を買いかぶり過ぎかも知れませんが、日本列島で人類最初の文明が起こったとすれば、辻褄が合うのも事実です。世界最初の土器である縄文土器、世界で最初の帆船、そして、世界で最初の玉造り。中でも、玉造りは現代の通貨経済の根源をなすものです。あんまりこんな事を言うと、朝鮮人の「ウリジナル」と同じになってしまいますね? そんな朝鮮人でも、日本の縄文時代に縄文人が半島にまで進出していた事は認めているようです。

なぜ縄文時代・弥生時代には、文字が無かった?

 残念ながら縄文文明は、世界的に認知されていません。これは、「文字」の発見が無いからです。日本列島での「文字」の使用は、5世紀頃に漢字が入って来てから、とされています。邪馬台国があった弥生時代でさえも、文字が見つかっていません。普通に考えれば、縄文時代からあって当然のように思えますが。

 この原因は、縄文人にしても弥生人にしても、土器の文化だったからではないのか? と想像しています。エジプト文明では石の板に彫り込んだ文字、黄河文明では動物の肩甲骨に彫り込んだ文字、というのが有名ですが。日本列島の場合には、土器の文化が進んでいた為に、土の板に彫り込んでしまったのかな? なんて考えています。

 文字を掘った土の板は、すぐに土に帰ってしまった。という訳です。