邪馬台国の通貨は、勾玉でした。翡翠は最高級

 こんにちは、八俣遠呂智です。

古代の長距離移動の11回目になります。後漢書や魏志倭人伝などに書かれている倭国から中国への朝貢。これまでに、道中の食料調達方法を考察してきました。もし食料を現地調達していたならば、その対価として中国貨幣や金属類を支払うケースを仮定しましたが、納得できる結論には至りませんでした。何か別の物をお金の代わりとして使っていたのではないでしょうか? 私は、それが勾玉などの「宝石」 だったと思います。

 弥生時代に大人数で長距離移動するのは、非常に困難だった事でしょう。特に、交通手段と食料、という2つの点は重要です。

 食料については、前回までに、

・縄文人のように食料を採取しながら移動するのは、無理がある事。

・江戸時代の参勤交代のように、食料を持参するのも困難である事。

などを示してきました。

 そして、道中の小さな村々で現地調達するのに、対価として何らかの物品があったのではないのか? それが何だったのか? という点を考察しました。お金のように、小さくて持ち運びの自由なもの。しかも、価値の高いもの。

 その可能性として、貨泉のような中国貨幣や青銅器類、鉄器類を候補に挙げましたが、いずれも不合理な点が見られました。

 では、何がお金として利用されていたのでしょうか?

それは、宝石です。

 弥生時代から作られ始めた「勾玉」や「管玉」こそが、その当時のお金の役割を果たしていました。

一般には、これらは装飾品であるとされています。もちろんその用途はあったでしょう。しかし、それが昇華して行って、最終的にはお金と同じような役割を持つようになったと考えます。

勾玉というのは、ヘンテコな曲がり方をしていますよね? これは弥生時代から古墳時代や飛鳥時代に至るまで、1000年近く、日本列島全域で共通の形が続いていました。単なる装飾品であったならば、一つの形に拘らずに様様な形へと変化して行っても良さそうなものですよね? ところがそうはならなかった。これは、誰が見ても価値があるものだと分かるように、統一した形にしたのだと考えるのに無理はないでしょう。

 現代のお金には様々な硬貨や紙幣がありますが、日本人全員がそれを見て「価値のあるものだ」、と認識しない事には、役に立ちませんよね? 自分勝手に金属加工して硬貨だとしたり、自分勝手に印刷して紙幣だと言っても、誰も信用しないし、何の価値も認められません。

 古代に於いては、「勾玉」や「管玉」という標準的な形に加工する事で、全ての倭人が「価値のある物」、という共通認識になっていたのです。

 また、勾玉・管玉ともに穴が開いており、紐が通せるようになっています。これは、首からぶら下げるネックレスとしての使われたからだ、という意見が大多数です。もちろんその用途もあったでしょう。

 では、古代のお金はどうでしょうか? 円形の金属に必ず穴が開いていますよね? これも首から下げるネックレスとして使われたからでしょうか? お金をネックレス代わりに使っていた人もいたかも知れませんね? しかし、穴が開いている一番の目的は、多くの硬貨を紐で通して束ねて、首から下げるなり、腰に巻き付けるなりして、持ち運びしやすくする為です。決して装飾が目的だった訳ではありません。

 勾玉・管玉も同じです。持ち運びしやすくする為に、紐を通して束ねて、首から下げるなり、腰に巻き付けるなりしていたのです。その為の「穴」なのです。

 仮に、勾玉・管玉が単なる装飾品であったならば、同じ形に拘る必要はありませんでした。もっと様々な形状に加工しても良かった筈です。ところが、弥生時代から1000年もの間、形が変わっていないのです。そして、7世紀に日本で初めて「富本銭(ふほんせん)」と呼ばれる金属製の硬貨が使われ始めますが、その時期から、勾玉・管玉は一気に姿を消して行きました。

 この状況は取りも直さず、古代に於いて勾玉・管玉がお金の役割を果たしていた事、そして金属製のお金が使われ始めた事で、その役割を終えた事を示しているのです。

 勾玉や管玉の価値がどの程度のものだったのか? どの程度の食料や物品と引き換えられたのか?

それは分かりません。しかし、材料や大きさによって、それぞれの価値が定められていたのでしょう。

 原材料は様々です。翡翠、瑪瑙、水晶、ガラス、滑石、琥珀、鼈甲、などがあります。

この中で、最も価値の高いのは、翡翠です。現代でも同じですね?

 希少性が高く、硬くて丈夫で、加工が難しいからです。ダイヤモンドと同じようなものです。

翡翠は、7000年前の縄文時代から加工が始まっている宝石ですので、その価値の高さは古代の日本人全体に知れ渡っていました。

 なお、翡翠には価値の高い硬玉と、価値の低い軟玉があります。それを見分けるのは簡単で、叩いたり引っかいたりすれば良いだけです。これはあたかも江戸時代の小判の純金の度合いを見分ける為に歯で噛んでみる、という単純な方法と似ていますね? 翡翠硬玉には、その価値を見分けるのに都合が良い、という利点もあった訳です。

 また、王族のお墓からは翡翠硬玉の勾玉がよく発見されますが、最も価値の高いものだったが故に、最終的に装飾品や威信財としての価値も認められていたという事なのでしょう。

 弥生時代には、翡翠硬玉で作られるのは勾玉に限られ、管玉の方は、碧玉や鉄石英などの価値の低い別の石で作られています。翡翠硬玉の加工が難しかった事もあったのでしょうが、管玉の価値をワンランク下として位置づけしたのも理由でしょう。管玉のほかにも、球形に穴をあけた小玉もあり、主にガラスで作られています。

 これらは現代のお金で例えるならば、勾玉は一万円札、管玉は500円硬貨、小玉は10円硬貨といったところでしょうか?

 このように、日本列島で金属製の硬貨がまだ使われていなかった時代には、お金の役割を果たしていたのは勾玉・管玉などの宝石類です。一般庶民が日常的に使っていたかどうかは疑問が残りますが、少なくとも長距離移動には使われたと推測します。

 勾玉・管玉・小玉を、一つの紐に多数連ねて、携帯に便利なようにしていたのです。重い荷物を運ぶ事なく、小さいながらも非常に価値の高い物を運ぶ。宝石、これを携えて、旅先の村々で食料調達を行っていたのではないでしょうか?

また、日本列島だけでなく朝鮮半島の弥生遺跡からも翡翠の勾玉が出土していますが、これも同じような理由です。朝鮮半島南部は、そもそも倭国日本の領土でしたので、勾玉・管玉がお金として利用されていたのです。魏志倭人伝に記されている魏への朝貢の際にも、これを携えて、食料で現地調達を行った事でしょう。

 いかがでしたか?

最高級の勾玉の原料となる翡翠硬玉は、日本列島では新潟県糸魚川のみに存在します。世界全体でもミャンマーに鉱脈があるだけの、とても希少性の高い宝石です。この翡翠硬玉などを用いた玉造りは、日本列島では7000年前の縄文時代から始まっています。これは世界で初めての事でした。日本人は世界で初めて、原始的な「物々交換」から「通貨経済」へと進化した人種といえますね?

 次回は、古代の長距離移動のテーマから少し離れて、古代日本の玉造りについて考察します。

女王國には玉造り遺跡がある

 魏志倭人伝に記されている女王國というのは、30ヶ国ほどの連合国家なのですが、その中の主要国、邪馬台国、投馬国、伊都國からは、弥生時代の玉造り遺跡が発見されています。当然といえば当然ですね?

なぜならば、勾玉や管玉にお金の役割があったとすれば、玉造り工房は現代の「造幣局」に相当しますから、主要国に造幣局があって然るべきです。玉造りが単なる装飾品の製造だったとすれば、原石の産地で作ればいいだけの事です。なぜ邪馬台国や投馬国で玉造りが行われていたのか、という事を突き詰めて行けば、やはり勾玉や管玉がお金の役割りを果たす重要な宝石だったという事になるでしょう。

 なお、勾玉がお金だったと言っているのは、おそらく私だけです。異論もあるでしょうが、とても現実的な話だと思いませんか?