邪馬台国の使者の食料 買ったの? お金は?

 こんにちは、八俣遠呂智です。

古代の長距離移動の10回目になります。後漢書や魏志倭人伝などに書かれている倭国から中国への朝貢。それは100人以上の大部隊だったと推測します。そこで重要になってくるのが食料です。数百キロにも及ぶ長旅の中で、彼らはどうやってお腹を満たしていたのでしょうか? 江戸時代の参勤交代の場合には、大量の食料を自ら持って行くのが基本だったようですが、邪馬台国時代も同じだったとは到底考えられません。今回は、道中の村々で食料調達をした場合について考察します。

 弥生時代の長距離移動は、想像以上に困難です。陸路は獣道しかありませんし、海路も稚拙な船しか無かった時代です。大量の食料を持参するには限界がありました。縄文人のように、道中で海の幸・山の幸を狩猟採取しながら移動したとも考え難いですよね? すると、旅の途中の村々での調達となりますが、ここにも大きな疑問があります。

 思いつくままに疑問点を挙げて行けば、

1.立ち寄る村に十分な食料在庫はあったのでしょうか?

2.通貨の無い時代に何を対価にしたのでしょうか?

3.支配地域ならば税金代わりに強制的に徴収したのでしょうか?

 まず、立ち寄る村に十分な食料在庫があったのか? という疑問から考えてみましょう。

当時の人口は現代よりも遥かに少なく、一つの村での人口は、せいぜい100人程度でした。大規模な水田適地が存在した邪馬台国のような場所ならともかく、日本列島のほとんどの場所では局地的な水田適地しかありませんでした。そんな場所で細々と農業を営んでいたわけですので、人口を賄える食料生産のキャパシティは小さなものでした。

 中国へ向かう朝貢部隊は100人以上、多ければ500人を超える規模でやって来るのですが、そんな事態が突然起これば村全体の食料がいっぺんに枯渇してしまい、パニックになるのは必然ですね?

 おそらく戦の後方支援の兵站部隊とは逆に、目的地に先回りして食料確保を行う先遣隊のような部隊が存在していたのではないでしょうか? 予め現地で必要な食料を確保してから、本隊がやって来るのを待つという、計画的な食料調達が行われていたと推測します。

 次に、通貨の無い時代に何を対価にしたのか? という疑問です。

旅の途中で食料を調達するにしても、当時はまだお金が流通していない時代です。取引は、物々交換でした。食料に対する物品は何だったのでしょうか?

 それは、小さくても価値の高いものだった事は容易に想像できます。大きいものを対価にするのならば、そもそも食料を自分で運べばよいだけの話です。それが出来ないからこそ現地調達する訳ですので、対価としては、荷物にならない小さい物だった事は、間違いないでしょう。

 まず考えられるのは、中国貨幣を使っていたケースです。弥生時代の倭国日本にはまだお金が鋳造されていませんでしたが、中国のお金が日本列島や朝鮮半島でも使われていた可能性です。

「貨泉」と呼ばれる青銅製の中国貨幣は有名ですね? 中国の漢の新(しん)代の銭貨の一種で、西暦1世紀初頭に鋳造されたものです。丁度、後漢書に記されている倭国が初めて中国へ朝貢した時代です。

日本国内からは、伊都國(現在の福岡県糸島市)や投馬国(現在の京都府京丹後市)などから発見されています。ただし、ほんの10か所からしか見つかっていませんので、どれだけ流通していたのか? 旅の途中の村々で、これを価値のある物と認識して食料調達を行えたのか? いささか疑問です。さらにその当時は、倭国日本にも青銅器の鋳造技術はありました。必要であれば、中国貨幣を使わずとも日本国内で自ら貨幣を作っていたはずです。それがないという事は、中国貨幣を使っていた可能性は低いでしょう。

 次に、銅鐸や銅鏡などの青銅器をお金として使っていたケースです。

銅鐸は、紀元前から日本国内で作られていたものです。中国から伝来したものではありません。水田開発や灌漑用水工事の為の、水準器や測量器として使われていました。単純な威信財ではなく、生活に密着した実用品でしたので、旅の途中の村々で食料と交換するには打って付です。しかしながら、小さくても15センチはありますし、上部のヘラの部分は薄っぺらな構造です。長距離移動に携行するには、大きすぎて壊れやすい、という欠点があります。

 なお銅鐸の使用用途については、数十年前までは「祭祀を行う際に鳴らす鐘である。」とする説が一般的で、未だにそれを信じている方も多いのではないでしょうか? これは有り得ません。なぜならば、上部のヘラの部分が薄っぺらいので、ひもで吊り下げて鐘として使おうものなら、あっと言う間に折れてしまうからです。無理です。

 銅鏡については「貨泉」と同じように、中国の前漢の時代から盛んに作られるようになり、日本にも輸入されたようで、いくつか出土しています。しかし、日本国内で作られるようになったのは、「三角縁神獣鏡」のように四世紀の古墳時代に入ってからです。弥生時代には国産の銅鏡はありません。「貨泉」と同じように、食料調達のお金として使われた可能性は低いでしょう。さらにサイズは、小さくても直径10センチはありますので、やはり長距離移動に携行するには大きすぎます。

 金属類では、青銅器のほかにも鉄器があります。

武器としての鉄剣、鉄鏃。実用品としての土木工事用具、玉造用工具。などがあります。これらの内、長距離移動に携行するのに適した小さなものは、鉄鏃と玉造用工具です。残念ながら、どちらも食料と交換するには役不足ですね?

物珍しさとしての価値はあったかも知れませんが、使用用途が限られていますので、お金の代わりにはならなかったでしょう。実際にこれらの出土地は限定されていて、鉄鏃ならば北部九州、玉造用工具ならばその名の通り玉造が行われていた場所、となっています。

 また、鉄の場合は潮風に当たるとすぐに錆びつき腐朽してしまいますので、「水行」という船で海を渡る行路には適しません。

 これらのように、青銅器や鉄器をお金の代わりとして食料調達を行ったと仮定するには、かなりの無理があります。

では、長距離移動の食料調達は何を対価にしていたのでしょうか?

 条件としては、小さくても価値の高い物です。金属類ではありません。すると、唯一選択肢が残ります。

それは、宝石です。

 次回以降の動画で、古代日本で多く作られた宝石が、長距離移動の食料調達の対価として利用された可能性を考察します。

 また、支配地域を旅したならば、税金代わりに強制的に食料を徴収した可能性についても考えて行きます。

 いかがでしたか?

魏への朝貢の旅は、当時の超大国でないと無理ですね? 現代にも言える事ですが、旅行するにはやたらとお金が掛かります。しかもその期間は、浪費するだけで収入は途絶えます。お金に余裕がある人でないと、遠くへ旅行する事は出来ませんよね? 古代も同じでしょう。食料生産が弱くて余裕のない小さな国では、とてもじゃないが、大人数で中国へ旅行できるわけがありません。魏志倭人伝に記された「七萬餘戸」という女王の都・邪馬台国だったからこそ、何度も中国へ朝貢に行けたのです。

本居宣長は経済学に弱い

 江戸時代の邪馬台国論争の先駆者に本居宣長がいます。彼は、邪馬台国が筑紫平野の山門にあったとしています。そして、そこの女酋長・田油津媛が自分が卑弥呼であると偽って魏へ朝貢した。としています。これは不可能です。弥生時代の山門地域はほとんどが海の底です。農業生産はごく僅かです。国力は貧弱でした。その事を、本居宣長も承知していたので、偽物・卑弥呼説に至ったのです。しかし、古代の大人数の長距離移動を甘く見過ぎていますね?

そもそも小さな国は支配地域も狭く、道中は敵だらけになってしまいます。それと同時に、今回指摘していますように、余裕がなければ食料調達もままなりません。しかも小さな国から大人数が出かけて行ったならば、働き手や国を守る戦闘部隊も弱くなってしまいます。偽物・卑弥呼が魏へ朝貢した、というファンタジーはいいのですが、あまりにも経済観念がありませんね?

 ちなみに、私の大好きな歴史作家さんも最近の著書で、本居宣長と同じような事をおっしゃっていました。いや~、残念です。歴史学者や歴史作家というのは、経済学に弱いようですね?