困難な陸行一月が必要な理由

 こんにちは、八俣遠呂智です。

古代の長距離移動の5回目になります。当時は、陸地を移動するのはとても困難でしたので、船を使った海路が主流でした。古代において「船を作る」というのは、現代の「航空機を作る」のと同じくらい重要で、先端技術の粋を結集したものだった事でしょう。一方で、魏志倭人伝の中には「陸行一月」という困難な長距離移動も見られます。これは何を意味しているのでしょうか? 今回は、この不思議な陸地の長距離移動に焦点を当てます。

 魏志倭人伝の邪馬台国までの行路では、主に「水行」という海を移動する手段が使われています。当時の地理的状況を想像すれば、陸地を歩くよりも船で移動する方が遥かに便利でしたので、当然です。

 しかし、「陸行」という困難な陸地の移動もところどころに見られます。具体的には、九州島最初の上陸地点である末蘆国から入国管理局の伊都國までの500里の陸行。伊都國から九州最大の国である奴国までの100里の陸行。奴国から大きな港があった海の国・不彌國までの100里の陸行。さらには、投馬国から邪馬台国までの行路では、二つの移動方法が記されており、一つは「水行10日」、もう一つは「陸行1月」です。

 陸行は困難ですので本来避けるべき移動方法ですが、これら4つには地理的条件や政治的思惑から、理に適う方法だった事が見て取れます。

 まず、末蘆国から伊都國までの陸行は、以前の動画で示しました通りです。女王・卑弥呼のしたたかな思惑から、あえて困難な陸行を魏の使者たちにやらせたのでした。入国管理局の伊都国に上陸させた場合、倭国の海岸線の情報・地理情報が丸裸にされてしまいますので、遠く離れた末蘆国に上陸させたのです。そして、500里もの困難な獣道を歩かせる事によって方向感覚を狂わせて、倭国の地理が実際よりも90度ずれていると思わせたのでした。

 この卑弥呼の思惑は大成功をおさめました。魏の使者たちは何の疑問も持たなかったようです。魏志倭人伝の邪馬台国までの行路では、最初の上陸地点の末蘆国からずっと、90度ずれた方角が記されたのでした。

 次に、伊都國から奴国、奴国から不彌國までも陸行でした。しかしここは、たったの100里という短い距離でしたので長距離移動には当たりません。その上に、地形的にも平地の多い場所ですので、陸地の移動であっても全く問題ありませんでした。

 陸地の移動で最も長い距離を歩いたのは、投馬国と邪馬台国との間です。「陸行一月」という長期間の移動です。当時の地理的状況を想像すれば、極端に困難な移動だった事でしょう。しかしこれにも、ちゃんとした理由がありました。

 投馬国と邪馬台国との間は、「水行10日」と「陸行1月」の2種類の移動方法が記されています。水行10日については、投馬国・但馬から、邪馬台国・越前までを対馬海流の流れに沿うように移動しますので、何ら問題は無かったでしょう。ところが、逆方向を進むとなると話は別です。対馬海流が逆方向になりますので、沖合を移動するのはとても困難になってしまいます。潮待ちをしたり、風向きが最高に良い日を選んだりしなければならないからです。

 これを避けるための一つの手段として、対馬海流の影響を受けにくい沿岸部を、地乗り航法で転々と移動する方法が考えられます。ところがここは、若狭湾というリアス式海岸です。断崖が連なっている場所ですので、上陸するのに適した港は限られます。その上に、入り組んだ湾の奥地に入り込まなりませんので、距離的に長くなり、要する日数も膨大になってしまいます。

 このように、古代の長距離移動で一般的だった「水行」とはいえ、海流の向きや海岸線の状況によっては返って困難になってしまいます。すると、陸地を移動する「陸行」も選択肢に入って来るわけです。

 そしてもう一つ重要な点を見逃してはなりません。それは、運搬する物資です。

投馬国から邪馬台国という航路では、大量の重い荷物が想定されます。なぜならば、邪馬台国は女王の都ですので、北部九州から連なる諸国連合国家を支配する地位にあるからです。当然ながら、投馬国よりも西にある地域から徴収した大量の物資は、邪馬台国へと運ばれます。いわゆる、租庸調という税の類のものであり、これは魏志倭人伝にも記されています。

 この場合、獣道しかない陸路を移動するのは、ほぼ不可能です。大型の船に大量の物資を乗せて、対馬海流の力を借りて海を移動するのが最高の選択肢となります。

 一方、逆方向の場合はどうでしょうか?

都である邪馬台国から他の支配地域へ向かうのに、大量の物資は必要ありませんよね?

運ぶとすれば高価な宝石類という軽い荷物になるでしょう。邪馬台国のある北陸地方は翡翠や碧玉などの産地ですので、それらを携える事になります。支配地域の王族へのご褒美であったり、道中の食料調達の為の「お金」の役割も果たす事ができます。

 価値は高いけれども重量の軽い「宝石」を運ぶのに、大型船は必ずしも必要ありません。小型船で移動するか、あるいは獣道ではあっても陸地を移動するか、という選択肢が増えて来ますよね?

 これらのように、邪馬台国から投馬国へ向かうには、陸路を使って歩いて移動する方が有利になります。対馬海流の方向や、リアス式海岸・若狭湾の不便さだけでなく、運搬する物資が軽量な宝石類である事を考慮すれば、必然的な選択肢と言えるでしょう。

 「陸行一月」という古代の長距離移動ではありえない困難な方法も、一つ一つ道理を見極めて行けば納得がいくものです。

 なお、「水行十日、陸行一月」という記述に関しては、水行で10日移動した後に、陸行で一月移動する、という解釈もあります。しかし、これは有り得ません。なぜならば、水行から陸行へ移る場所、すなわち上陸地点である港の名前が無いからです。邪馬台国という女王の都への最も重要な行路において、直前の上陸地点があったならば、同じように重要になります。その港の記述が無いという事は、この解釈は成り立たないという事です。

 現代で例えるならば、都・東京へ行くのに、水行10日で横浜で上陸したとします。そしてそこから陸行一月で東京に至りました。この場合、必ず横浜の名称は記載しますよね? 埼玉や群馬を無視しても、横浜は無視できないでしょう?

 魏志倭人伝の「水行十日、陸行一月」という記述は、水行ならば10日、陸行ならば一月、という意味である事に疑いようはありませんよね?

 いかがでしたか?

古代の長距離移動において、陸地を移動するのはとても困難でした。ところが魏志倭人伝には「陸行一月」と記されていました。これも邪馬台国の立地条件を順序だてて見て行けば、極めて自然な方法だと分かりますよね?

 そうはいってもやはり、船を使った海路の方が主流だった事は、間違いありません。邪馬台国から投馬国までは海流を逆向きに進む困難さがありましたが、投馬国から北部九州へ向かうにも同じような条件になってしまいます。しかしそこは、船を使った移動だったと考えられます。詳細は次回にて。

 

我田引水の面白い説があります

 邪馬台国が九州・筑紫平野の山門あたりにあったという説に人気があります。そんな中に、YouTube動画でコメディーのような面白い事をおっしゃる方がおられましたので、紹介します。邪馬台国まで「陸行一月」とは、博多湾から歩いて有明海地域へ移動した、と言うのです。まあ、これは一般的な九州説ですね? しかし普通に歩けば2,3日で到着してしまいます。一ヶ月も掛かりません。

 そこでこの方は、

「魏の使者たちは大変重要なお客様である。行く先々で盛大におもてなしされた。その為に、3日で行ける距離なのに、一ヶ月も掛かってしまったのだ。」

との事です。

 いやぁ~、面白い事おっしゃいますね。

邪馬台国は九州にあったという大前提で、行路を曲解していくと、そうなってしまうのですね?