長距離移動は船が主流。例外が陸行

 こんにちは、八俣遠呂智です。

古代の長距離移動の三回目になります。今回は、倭国日本が中国への朝貢した記録を整理し、具体的な移動方法の考察へと入って行きます。現代社会であれば、飛行機・船・鉄道・自動車など、あらゆる手段で長距離移動が可能ですが、邪馬台国があった時代にはそういう訳にはいきませんよね? 土地が全く整備されていませんし、川に橋が架かっていない時代です。短距離の移動でさえも困難だった事でしょう。そんな時代にも、日本と中国との交流があったのは、なんだか不思議な気がします。

 倭国日本から中国へ朝貢した最も古い記録は、魏志倭人伝に記されています。冒頭部分に、

「漢時有朝見者」

漢の時代に朝見するものがあった。とだけ記されています。少し具体的な内容は、その150年後に刊行された「後漢書」に書かれています。

「建武中元二年 倭奴国奉貢朝賀 光武賜以印綬 安帝永初元年 倭國王帥升等 獻生口百六十人 願請見」

 建武中元二年、倭の奴国が貢を奉り朝賀す。光武は賜うに印綬を以ってす。安帝永初元年、倭国王帥升等 生口百六十人を献じ、願いて見を請う。

 とあり、二回に渡って倭国から中国・漢の国へ使者たちが訪問していた事が分かります。

 最初は西暦57年の朝貢。二回目は、西暦107年です。

最初の朝貢の際には、印綬が下賜されたとありますが、「これが博多湾の志賀島から見つかった金印である」、とする説があるのは有名ですね?

 しかし金印なんかよりも重要な事があります。それは、倭国から中国へ多くの人が旅立った事。そして、どのような方法でそんな長距離移動が可能だったのか? という事です。これらは後で考察するとして、まずは、その後の朝貢の記録をトレースして行きましょう。

 後漢の時代の朝貢の次には、魏志倭人伝に記されている様に、女王國から魏の国への朝貢が始まります。

西暦238年と西暦243年の卑弥呼が生きていた時代の二回です。さらに、卑弥呼の宗女・壹與の時代に、一回あります。この時は魏は滅んで、晋という国になってからの事です。

 その後150年ほどの空白期間があって、中国は宋という国になり、倭国からの朝貢が再開されています。これは魏志倭人伝ではなく、宋書という中国正史に記されているもので、倭国の五代に渡る王様が断続的に朝貢して来たとされています。讃・珍・済・興・武、という名の王様で、一般に「倭の五王」と呼ばれています。日本書紀に記されているこの時代の天皇は、実在性の根拠のない神話の天皇たちですので、倭の五王との関係は全くありません。

 おそらくこの時代にはまだ、女王國と同じような日本海勢力が、ずっと中国への朝貢を続けていたと考えられます。

 では本題に入ります。

このような朝貢を行った人たちは、どのように長距離移動していたのでしょうか?

縄文時代のように獲物を追って移動して、食料を調達するという方法で無かったのは確かです。使者を派遣するというのは一見立派な行動に思えますが、その実は、食料生産を伴わない生産性のない活動です。

そんな長距離移動において、交通手段をどうしていたのか? 道中の食料はどうやって調達していたのか? などの様々な疑問が湧いてきます。

 まず、交通手段について考察します。

陸地を歩いたのでしょうか? 海を船で移動したのでしょうか?

 陸地を歩いて長距離移動したなどは、ほとんど不可能ですね?

 当時の陸地の様子を想像してみましょう。現代のようなコンクリートやアスファルトで固めた小綺麗な平野が広がっていたわけではありません。

 河川の下流域では湿地帯が広がり、僅かばかりの水田が作られていたでしょう。しかし少しでも上流に遡れば、人の手が加えられる事もなく、鬱蒼とした雑木林が広がっていた事でしょう。現代の河川敷に見られる雑木林で分かる通り、平野部であっても放置状態となっていれば、ほんの十年程度で立派な密林地帯へと変貌してしまいます。自然の摂理です。

 河川敷の雑木林に限らず、武蔵野の森や富士の裾野の樹海などを見れば、弥生時代の日本列島の様子が目に浮かぶのではないでしょうか?

 さらに、陸地を歩いていても必ず大きな川にぶつかってしまいます。江戸時代であれば、渡し船や簡素な橋が掛けられていましたので、なんとか渡る事もできたでしょう。ところが弥生時代です。そんなものはあるはずがありません。

川に出くわす度に船を作らなければならなくなります。長距離移動の中で、そんな事をいちいちやっていられないですよね?

 また、陸地を歩くといっても、平地ばかりではありません。日本列島の場合には急峻な山々が聳え立っていますので、頻繁に山越えをしなければならなくなります。もちろん、獣道のような細い細い小道のようなものはあったでしょうが、野生動物でしか登れない崖や沢にぶつかりますので、簡単に歩けるようなものではありません。

 これらの状況を考えれば、弥生時代の陸路を使った長距離移動は、余程の理由がない限り、あり得なかったと考えます。

 しかしながら魏志倭人伝には、困難な陸路を使った長距離移動が、二か所記されています。これには、それ相応の理由が見出されます。

 一つ目は、倭国から魏への朝貢ではなく、魏の使者たちが倭国に来た行路です。九州島最初の上陸地点である末蘆国から、入国管理局とも言える伊都國までの行程で、陸路が使われています。

「陸行五百里、到伊都國」

となっています。末蘆国は現在の佐賀県伊万里市で、伊都國は現在の福岡県糸島市ですが、なんだか不思議ですよね? 入国管理局の伊都國へ行くだけならば、一大國から末蘆国など行かずに、最初から伊都國へ上陸すれば良いだけの事です。ところがそうはしなかった。というより、女王國の思惑で、そうはさせなかった。

 その理由は、魏の使者たちに倭国の正確な地理情報を教えなかった、つまり方向感覚を狂わせるという目的があったからです。

 対馬・壱岐と渡って来た魏の使者たちは、倭人の水先案内人によって、伊万里あたりに上陸させられました。倭国の地理に疎い魏の使者たちにとって、それが伊都國への最短ルートだと思った事でしょう。

 倭人の案内によって、さらに末蘆国から伊都國まで行かなければならないのですが、それをあえて500里もの長距離の陸路を歩かせる事にしたわけです。そこは、松浦川の沢登り沢下りや、背振山地の獣道を歩かなければならないという、とても困難な陸路でした。

 魏志倭人伝にもその様子が記されています。

「草木茂盛、行不見前人」

草木茂盛し、行くに前人を見ず。

草木が生い茂って、前を行く人が見えないほどだ。という意味です。このような具体的な行路の困難さを描写しているのは、魏志倭人伝ではここだけです。それほど末蘆国から伊都國までの500里の陸路は獣道であり、大変だったという事がよく分かります。

 また、末蘆国(伊万里)から伊都國(糸島)までの実際の方角は北東方向なのですが、魏志倭人伝には「南東」と記されています。90度ずれているのです。まさに女王國の思惑通り、魏の使者たちは方向感覚を狂わされてしまったわけです。その後、魏の使者たちは、伊都國に留め置かれて、邪馬台国までの行路を倭人たちから教えてもらったようですが、見事に日本列島が90度ずれた形だと信じ込まされたようです。魏志倭人伝には、しっかりと90度ずれた方角に邪馬台国があるとの記述になっているのです。

 国の地形は、最重要機密です。それが他国に分かってしまうと、丸裸にされたのと同じことです。いくら女王國が中国・魏と友好関係を築いたからといって、いつ手のひらを返されて、侵略されてしまうかも分かりません。友好国であっても知られてはいけない情報は、完全にシャットアウトしていた訳です。

 さすが日本人のご先祖様。とてもかしこかったのですね?

このように、末蘆国から伊都國までは、本来陸地を歩かなくて済むものを、魏の使者を騙すためにあえて陸路をつかっていたのです。

 魏志倭人伝の陸路を使った長距離移動は、もう一ヶ所あります。それは、投馬国から邪馬台国までの「陸行一月」です。一ヶ月も陸地を歩くなんて、その時代の土地の様子を鑑みれば、尋常ではありません。

 しかしながら、ここにも明確な理由が隠されていました。

「水行十日」という海の長距離移動と並行して書かれているのがポイントです。詳細は別の機会に述べる事にします。

 いかがでしたか?

古代日本において、長距離移動に陸路を使うのは極めて稀でした。古代どころか近世・江戸時代でさえも、大量の物資を運ぶのに陸路を使っていません。北前船の存在がそれを明示しています。東海道・中山道・北陸道などの街道が整備されたといっても、それは小さな荷車が通れる程度のものでした。現代の道路の比ではありません。

古代の長距離移動を考える上では、やはり船ですね? 現代の飛行機に相当する存在でしたから、その当時の最先端技術を結集させたものが、大型の古代船だったのではないでしょうか?

魏志倭人伝の末蘆国は、唐津ではありません。

 魏志倭人伝の末蘆国、九州島の最初の上陸地点ですね。これについて、「末蘆国は唐津である」という説が多数派のようです。しかしこれは完全な間違いです。

 理由は幾つもあるのですが、まず距離がおかしいです。狗邪韓国から対馬まで1000里、対馬から壱岐まで1000里となっていて、壱岐から末蘆国までも同じく1000里なんです。ところが唐津が末蘆国だとした場合、半分以下の400里ほどしかありません。さらに末蘆国から伊都國までは500里となっているのですが、これも半分以下の200里程度になってしまいます。

 そもそも福岡県糸島市にあった伊都國を目指してやって来ているのに、なんでわざわざ唐津に立ち寄らなければならないの? っていう話になります。しかも船で移動すればすぐに到着するのに、困難な陸路を使って、背振山地の獣道を歩いたなんて、全く辻褄があいません。

 まあ、ここに拘る論者の中には、「魏志倭人伝には陸行と書いてあるけど、本当は水行だった」なんてとんでもない事を、涼しい顔しておっしゃっる方もおられますが。

それを言っちゃ~おしまいよ。というレベルですね。